ファウンドリーの誕生
振り返るとEUではそれなりに早い時期に、各国の主要電機会社が半導体部門を切り離し、M&Aで半導体専業メーカーを立ち上げています。背景でEUやIMEC等の協議等があったのかもしれません。
日本に於いては、総合電機メーカー、通信メーカーからの5社連合(日立、東芝、三菱、NEC、富士通)での超LSI組合※(1976-81)がまず有りました。その後、日米半導体戦争があり、米国から一方的な米国半導体製品の購入義務(日米半導体協定)まで背負わされました。これでは国主導の半導体政策などはムリだったと思います。
※超LSI組合とは日本政府主導で最先端半導体基礎・基礎技術開発、64KDRAMレベルを開発した組織です。
台湾の新竹市は「風の街」でいつも吹く強い風を利用してつくるビーフンが名物の地方小都市でした。この新竹市に新しい発想の企業が生まれ、それが巨大な世界企業に成長しました。有名なモリス張は「設計は他社ながら生産だけに特化して半導体を生産したらどうだろうか」というユニークかつ面白いアイデアを思いつきました。日本の企業にも打診しましたが相手にされず、いろいろと苦労した挙句にオランダのフィリップス社がOKを出し、1987年にTSMC社は設立されました。
工場のある新竹市サイエンスパークはたちまち巨大化し、隣街の桃園に拡大し、たまたま開放政策を取り始めた中国に進出、そこで安価な人件費と広大な土地に(上海近郊)巨大工場を次々と建築しました(人口が2000万人しかいない台湾なのに40万人が上海で働いている、しかも若い男性が、と巷では噂されたモノでした)。それ以降の大成功は皆さまよくご存知の通りです。
半導体製造の環境が変化する中で、電機メーカー、半導体メーカーの経営層が業態を垂直統合型から水平分業型に移行しなければならないということを見逃したのは失敗です。けれども巨大な投資に耐えられない電機メーカーが単独で半導体の最先端工場を作れなくても当然でもあります。振り返ると、その中にいた一人としては何とかならなかったのか、何か出来なかったのか、という忸怩たる思いは今も有ると最後にお伝えして私のブログを終えたいです。読んで頂いて有難う御座いました。